人口減少、人材不足、物価高騰…。課題が山積する医療・介護業界。過去の成功体験だけでは未来は描けない。未来は、医療・介護業界に生きる関係者がつくる。そんな思いから、CBnewsがスタートさせた新企画「言論広場」。1回目は、医療法人谷田会・谷田病院の藤井将志氏が登場する。(随時掲載)
■突如起きたインフレ
1990年代にバブルが崩壊してから、日本は長らく物価が上がらない環境が続いてきた。かれこれ30年近く物価が上昇しなかったわけだ。30年前というと、現在は企業の役員級のポジションに就いている50歳の人が社会人になったかどうかで、インフレは経験していないだろう。60歳代の人が若いころにインフレを経験した程度だ。
過去の歴史や海外を見ても、これだけ長期にわたってインフレが起こらなかったことは珍しい。政府や日銀がこれまで何度も物価を上げようと努力してきたにもかかわらず実現できなかったが、ロシアのウクライナ侵攻による貿易制限や為替相場の円安をきっかけに物価上昇が起こっている。これまで物価を上昇させられなかったことが失策かどうかはさておき、今の日本社会で意思決定に携わる層が経験したことがないインフレが突如起こってしまった。
■民間の医療機関や事業者が窮地に
この30年ぶりのインフレ社会に対して、一般企業は市場原理に基づいて商品やサービスの価格を決定できるので、仕入れコストが上がったらそれに合わせて売価を上げるという、至極当たり前なことをして対応した。さらに、物の値段が上がったことにより、当然のように従業員の賃金も上がり始めた。全く同じ物が昨年よりも高価になり、同じことをやっていても賃金が上がる。長期の物価停滞に慣れていた人からすると違和感があるが、インフレ社会では当たり前なことである。
こうした中、とばっちりを受けているのが、価格決定権が自身になく、国が決める報酬以外に公的財源の後ろ盾もない民間を中心とする医療機関や介護、福祉事業者である。市場原理ではなく、政府が売価を決めているサービスには、医療以外にも水道などがあるが、それらは基本的には公営企業であり、下支えする国や自治体の収入である税金は物価上昇に比例して増えていく。事実、2024年度の国の税収はバブル期を超えて過去最高の75.2兆円を達成している。消費税も所得税も、上がっている物価や賃金に掛け算されるので、税収が増えるのは当然である。
診療報酬制度も、インフレが当たり前だった1990年代以前には毎回のように点数がアップしていた。しかしその後、物価が上がらない時代が長らく続いたために、点数を上げることを経験している人がいないのである。財務省も厚生労働省も内閣府も、さらには政治家も利害団体も、これまでの延長で医療費を抑制することが、あらゆる意思決定の前提となっている。外部環境が変化しているのに過去の環境での意思決定を土台にしているわけだ。当事者が悪いわけではなく、そもそも経験したことがないのだから仕方がない。
しかし、価格決定を市場原理に委ねないなら政府がそれを決めなければならず、それによる結果責任は政府が取らなければならないのは必然であろう。
■医療の値決めは2択
医療の値決めの選択肢はシンプルで、(1)市場に価格決定をさせる(2)これまで通り統制価格でいくなら物価相応に上げる-しかない。
(1)は混合診療の全面解禁を意味する。「公定価格で足りない分は医療機関が自由に価格を設定して取ってください」という世界である。(2)は診療報酬を物価に連動して引き上げる。それらをいずれもやらない場合に生き残るのは、診療報酬以外に財源がある公立、公的、企業立(本業の利益で赤字を補填してくれる場合)の医療機関だけだろう。福祉医療機構が相応の債務保証をすれば、民間も生き残れるかもしれない。
まぁ、そうしたドラスチックな社会変革も悪くはないが、日本の強みである「安定」した社会を自ら崩す必要はないと思う。病院の9割弱、診療所の9割を民間資本で作らせ、国民皆保険制度と提供インフラを整えてきたのだから、それを短期間でスクラップさせるほど危機に瀕しているわけではないだろう。
■物価連動の診療報酬が最良な選択
ここからが、筆者が提案したいことの本質である。物価の上昇に連動させて医療費を上げる、つまり、診療報酬は物価の伸びに比例して改定する。ただし、国民の負担率が増えることには支持を得られにくいので、保険料率は現状で固定させる。保険料率が固定されても、加入者の賃金が上がれば自ずと保険料の総額は増える。それこそが、物価が上昇する世界である。医療のメーンユーザーである高齢者は2042年までは増えるので、それに伴い医療費は増える。そのため、医療保険財政は赤字が増えてしまう。
しかし、42年以降は高齢者が減り始めるので医療費は下がる。それ以降も世界的・歴史的なトレンドとして物価上がるなら保険料の総額は下がらない。つまり、長期的に見れば累積した医療保険の赤字も解消していく。筆者の試算だと24年の赤字分は50年までには単年度ベースでバランスし、累積赤字も80年ごろには解消する※1。いずれ解消するとはいえ、莫大な赤字を一時的にでも抱えるのは難しいという声もあるだろう。
これも筆者の試算だと医療保険の累積赤字はピーク時に55兆円程度になる。24年の公的債務の累積は1,129兆円、24年1年間の国債発行額は34.9兆円だった。日本は、この程度の負債を負えないほど小さく、信用が低い国ではなかろう。
医療提供体制がいったん崩壊し、社会問題が起こってからそれを解決するために財政投資をしてインフラを再構築するのには大変な労力がかかる。医療費を物価に連動させて引き上げたところでゾンビ企業が乱立するわけではなく、いずれ医療需要が減少し始めれば医療機関の淘汰が自然に進むだろう。事実、人口が既に減少している地域では医療機関も病床も減少している。
民間医療機関をこの1-2年で潰して医療崩壊を社会問題化させるより、一時的な財政負担をしてでも、社会秩序を維持する方が国民にとって幸せではないだろうか。
※1 「インフレ環境下における医療費と社会保険財政の持続可能性」藤井将志
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